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  • アンヌ・アントワネット・ド・ブルボン=パルム(フランス語: Anne Antoinette Françoise Charlotte de Bourbon-Parme, 1923年9月8日 - )は、ルーマニアの元国王ミハイ1世の妻。王制廃止後に結婚したが、慣習的には王妃の称号で呼ばれている(ルーマニア語名:アナ・デ・ロムニエイ、Regina Ana a României)。父はパルマ公子ルネ(パルマ公ロベルト1世の息子)、母はデンマーク王家出身のマルグレーテ(クリスチャン9世の三男ヴァルデマー王子の娘)。ブルガリア王ボリス3世、ハプスブルク家前当主オットー・フォン・ハプスブルク、ルクセンブルク大公ジャンらは父方の従兄にあたる。彼女が生まれる以前にパルマ公国はサルデーニャ王国に併合され(間もなくイタリア王国が成立)、祖父らは国外へ亡命を余儀なくされた。ロベルト1世の大勢の息子の一人に過ぎない父には資産も少なく、フランスで不自由な生活を強いられていたという。フランスへナチス・ドイツが侵攻した1939年、一家はスペインへ脱出、ポルトガルを経由してアメリカ合衆国へ定住した。アンヌはニューヨークで教育を受け、百貨店メイシーズで売り子として働いた。1943年、フランス軍でボランティアを務めた。1947年11月、イギリス王女エリザベス(現在のエリザベス2世)とフィリップ・マウントバッテン(クリスチャン9世の曾孫)の結婚式に出席した際、同じく出席者であったミハイと出会う。2人は恋愛関係になり間もなく婚約するが、同年12月30日にミハイは退位を余儀なくされた。1948年6月10日、ギリシャ王パウロスの好意により、アテネでミハイと結婚した。アンヌはカトリック、ミハイはルーマニア正教会に属していたため、結婚式は宗派によらないやり方となった。このため、長らくバチカンは2人の結婚を正式なものと認めてこなかったが、のちに教書を出して正式と認めた。2人はフィレンツェ郊外に新居をかまえるが、スイス、イギリスと住まいを変えた末、1955年よりジュネーヴ近郊に落ち着いた。5女に恵まれた。1992年、共産主義政権崩壊後に、ミハイとともに3日間だけのルーマニア訪問をした。ルーマニアへ入国したのはこれが初めてであった。1997年より、ルーマニアへ永住することが認められ、一年のうちスイスとルーマニアで半分ずつ過ごしている。また、女子の王位継承権をホーエンツォレルン=ジグマリンゲン王家は認めておらず、ミハイとアンヌの娘たちは王位を請求できない。ミハイには兄弟がいないため、最も近親の男子である又従弟フリードリヒ・ヴィルヘルムが王位請求者となる予定であった。しかし2007年12月30日、ミハイの退位60周年記念の日に、ルーマニア王家における継承法の改定と王位の相続人として国王夫妻の長女マルガレータを指定する文書に署名した。
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